「なんで誰も助けないの?」—見て見ぬふりが当たり前になった国で、私たちが忘れていること


通勤・通学途中の電車内で迷惑な行為をする乗客に腹が立った経験は誰もがあるだろう。しかし、都内の一般企業に勤める東也さん(仮名・40歳)は、トラブルが起きた際に「見て見ぬふりの乗客と駅員に腹が立った」と語る。

——こんな記事を先日、ふと目にしました。

「ああ、わかる」と思うと同時に、私はある日電車内で見た、忘れられない光景を思い出しました。


何もできなかった“私”と、動いた“旦那”

その日、いつものように朝の通勤ラッシュに揺られていたときのこと。

私のすぐそばで、小学生くらいの男の子が突然倒れました。泡を吹いて、痙攣している。傍らではお母さんが半狂乱で叫んでいます。でも、周囲の乗客はみんな——まるで「見なかったことにしよう」とするかのようにスマホから目を離さず、目線をそらし、何ごともなかったかのように沈黙していました。

そんな中、動いたのは——私の外国人の旦那でした。

「ダイジョウブデスカ?!」
たどたどしい日本語でお母さんに声をかけ、状況を確認し、周囲に「誰か119番!」と呼びかけながら、人垣をかき分けて助けに入ったのです。

私は、ただその様子を見て立ち尽くしていました。
心の中では「助けたい」と思いながらも、足が動かなかった。

そしてその日の夜、彼に言われた一言がずっと心に残っています。

「なんで誰も助けなかったの?君も含めて。」

胸が苦しくなるような、痛い問いでした。


日本では「助けた人」が損をする?

私は彼に、こう答えるしかありませんでした。

「最近の日本って、助けても逆に訴えられたりするから、みんな怖くて動けないんだよ……」

これが、今の日本社会の空気です。

善意で声をかけたつもりでも、誤解されたら最後。
例えば、数年前の話。ゲームセンターで1人でいた小学生の男の子に話しかけ、メダルゲームを一緒にしてあげた若い男性が「不審者が息子に接触した」と通報され、警察沙汰になったというニュースがありました。

他にも、駅で倒れた女子高生を助けようとした中年男性が「体を触られた」とセクハラで訴えられた例もあります。

助けた人が“加害者”になるリスクが現実としてある。
こうした事例がSNSやメディアで広まり、「関わったら負け」「助けたら自分が傷つくかもしれない」という思考が無意識のうちに染みついてしまったのかもしれません。


助けないことが「普通」になっていく怖さ

見て見ぬふりが常識になっていく——その恐ろしさを、私たちはもっと真剣に考えなければいけないと思います。

もちろん、誰かを助けるにはリスクがあります。
でも、それでも「見捨てない人」が1人でもいることで、救われる命や心がある。

あの時、旦那が声をかけなかったら、あの少年とお母さんはどうなっていたんだろう。
あの無関心な車内で、誰ひとり言葉を発さなかったら、何が起きていたか。

考えれば考えるほど、怖くなります。


「あなた、動いてくれてありがとう」——誰かの一言が、勇気をくれる

旦那が助けに入ったあと、ようやく何人かが動き出しました。
1人の女性が非常停止ボタンを押し、別の男性が駅員に走って知らせてくれました。

その後、駆けつけた駅員に引き渡したあと、お母さんは涙ぐみながら旦那に何度も頭を下げていました。

「あなたが最初に動いてくれなかったら、どうなっていたか……ありがとうございます、本当に」

その言葉を聞いて、私は心から思いました。

「誰か1人が動けば、連鎖は始まる」
「最初の“声かけ”が、命を救うこともある」


「優しさ」がリスクになる社会で、どう生きるか

日本では今、裁判所や行政の中に外国人や帰化した人が増え、「日本人には不利な判決が出やすい」といった声も聞かれます。
真偽はさておき、少なくとも「信頼していたはずのシステムに守られないかもしれない」という不安は、多くの人の心にあると思います。

でも、それでも、私はこう思います。

「優しさにリスクが伴う」としても、優しさを手放したくはない。

少し勇気が必要でも、少し損をするかもしれなくても、「見て見ぬふり」はやっぱりしたくない。


最後に——あの時の問いかけを、胸に刻んで

それでも私は——
正直に言うと、私はたぶん、次に同じ状況に出くわしても、すぐに動ける自信はありません。

あの日、夫の行動を間近で見て「すごいな」「尊敬するな」と思った一方で、自分にはできなかった。心のどこかに、やっぱり「もし訴えられたらどうしよう」「逆に迷惑がられたらどうしよう」という不安があるからです。

これは弱さなのかもしれません。でも、それが“今の日本”の空気のようにも感じます。

助けたい気持ちはある。でも、それを素直に行動に移せる社会じゃない。親切心が時に「不審者扱い」や「セクハラ」とされてしまうリスクのあるこの国では、“正しい行動”をする勇気すら持ちづらくなっているのが現実です。

それでも、声をかけて、手を差し伸べる人は本当にすごいと思うし、尊敬します。

私は、たぶんまだそこまで強くなれていないけれど、せめて「そうなりたい」と思う気持ちだけは、持ち続けていたい。

誰かの小さな勇気が、優しさが、少しずつこの社会の空気を変えていくのかもしれませんから。

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